2009年7月26日日曜日

無知はそれだけで人間として罪

  自分がイジメられっ子やって、イジメられるというのがどんなに辛いか
 分かっていたオレやったのに。
 実はそうではなかった。

  今、思い出しても、いや常にこの50有余年頭から離れない悪寒が走る
  自分の過去の事実。


  あれは小5の時やった。
  小4から組替えで新しい馴染みの無い級友が整い、二人机のオレの横
  は女の子。もっともその頃は男女を一組で一つの机にしていた。

  オレの望みは学年でも優秀なマドンナ的存在やった宮本という女の子
  やたけど、早々望み通りいく訳がない。

  その子は前列に位置していてオレはというと最後列にさせらた。
  いつも宮本の長いお下げ髪をただ眺めるだけやった。

  オレと同席になったのは清水(仮名)という細い背の高い髪が長い女の
  子やった。

  彼女は韓国人。

  大人たちの風潮に考えるコトもなく「チョンコ」と蔑んでいた。

  宮本が望みやったのに寄りによって何でチョンコやねんと腹立たしく。
  「お前な、出来るだけ離れとけよ」

  それ位ならまだ良かった。

  腹立たしさが日を追う毎に増幅していって遂には
  「お前、明日からオレに10円ずつ持ってこい」

  清水は毎日、健気にも10円持ってきて黙ってそおっと机の上に置いた。

  そんなコトが何ヶ月続いたんやろう。

  当時の10円は子供にとっては大金や。
  たこ焼き三個で5円やった。その価値を今と比較でけへん。


  今、66のオレの小5といえば戦後10年が過ぎた頃で日本が復興期の
  最中、日本人までも人々は貧乏やった。
  バラックが住居というのも珍しくなかっ。


  オレの父親は地域のボス的存在でPTAの会長なんかもやって、学校
  が古い校舎を取り壊し新校舎を建てるというので、解体した古い校舎
  の建を多分ただでせしめたと思う。

  その建材で簡素なアパートを作った。
  全て6畳一間。トイレも炊事も共同。

  子供ながら父の命令で家賃を取りにいっていた。
  その時の光景はオレには信じられへんような。

  6畳一間、申し訳程度の押入れがついているだけの空間に家族5、6
  人が生活してたんや。

  オレの部屋でも四畳半はあった。
  この差は何やねんと子供心に不思議にも思っていた。


  日本人さえそんな人達がいっぱい居てた時代。
  ましてや、あからさまな差別に晒され続けていた朝鮮、韓国の人たち

  は狭い家で何家族も肩を寄せ合って生活して貧乏のどん底やったと思う。

  清水の家も例外ではなかった。
  比較的裕福やったオレの家。


  裕福とは他人の労働の糧をかすみ取るコトやと
  22になるまで分かれへんかったオレ。


  そのオレでさえ10円の小遣は何日かに一 度母親から手渡されていた。

  清水は毎日、どうして10円を工面してどんな思いでオレに持ってきて
  いたのか、それを思うとオレは今でも懺悔しても懺悔してしきれない痛
  切な思いで自分を責めている。


  あの子は、あの人は今では孫に語っているかも知れない。
  「小学校の時に同席になったガキ大将にこんだけ辛い思いをされ続け
  ていた。そやからまちごうても日本人なんか信用したらアカンで」

  もし、会うコトができたならオレは土下座して許しを請いたい。

  許されても、オレの過去の醜い汚点は一生消えへん。


  無知とは、かくも残酷な現象をアッサリ産んでしまうんや。

  無知はそれだけで人間として罪であるんやと。

  教養とか知識ではなく、真実を知らへん無知。






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